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 いざさらば

 変調は緩やかにやって来た。
 太陽が照っている昼半ば、明るい部屋の中。冷たい風が遮られ、ただ陽光の温もりだけが窓ガラス越しに届く。日中の気温に限れば、過ごしやすい季節のはず。
 じわり、と背筋に汗が浮いた。起こしていた体に重力がのしかかる。じん、と腕が痺れて、指先が戦慄いた。痺れが肩を伝い、全身に回る前に桔平は布団に寝転がった。
 背をつけて体重を預けると、柔らかく包み込んでくれるはずの綿がいやに気に障る。さらさらしたシーツの感触が、体温を吸ってもたつく不快に切り替わった。
 熱が上がっているのだ、と気づくのはすぐだった。
「くそ……すぐか」
 は、と吐き出す息は湿っていた。意識さえ向ければ、原因はすぐに知れた。胎の奥深く、じりじりと火花を放つ熱源がある。生まれたばかりの炎が、巡る血を温めていく。沸騰するまでさほど時間は掛かるまい。
「早う帰ってこい」
 弱音は甘えた響きになって、布団の上に零れ落ちた。目を閉じる。瞼の境目にじわりと滲む温さが腹立たしい。
 悪態をついて、桔平は布団の上で丸まった。

 どれほどの時間が経ったのか。体感速度は地を這う鈍さで、一秒ごとにしか動かない時計を見るのもやめてしまった。
 それなりに壁の厚いアパートでよかったのか悪かったのか。耳を澄ませても足音は聞こえなかった代わりに、ドアノブを捻ろうと焦る気配が音となって届く。
「きっぺー!」
 乱暴に開かれた扉に、感じたのは苛立ちではなく安堵だった。胎の熱を抑え込むように抱え込んでいた足を伸ばす。
 放り投げるように脱ぎ捨てられた靴が三和土に転がる落下音も、己がアルファが逸った証だと思えば悪くない。
「遅か!」
「すまん」
 だが待たされたのは事実だったので、桔平は本能の命ずるままに声をあげていた。最寄りのコンビニまでは徒歩十五分。現役は引退したとはいえ、トップクラスのスポーツマンだった千歳が本気で走ればすぐに往復できる距離だったはず。
 頭の隅で冷静さを保った自分が、アルファの抜け殻が、「甘えているのか」と笑う。なにが悪い。望めと言ったのは千歳だった。
「ドラッグストアまで行ったらひまんいった」
 茹だり始めた頭でも、意味するところはわかる。ゴムのサイズと、尻用のローション。ぬるり、と下着に滴る感触がした。
 ビニール袋が擦れる音。枕元へしゃがみ込んだ大きな体が影を作る。見上げた顔は逆光に陰っていたが、ギラギラと光る双眸はよく見えた。
 今にも食らいつきたいという顔をしているくせに、千歳は手に持った袋の中身を指し示した。
「先に何か食ぶるか?」
「いらん」
 白い袋越しに、部活をやっていた頃はよくお世話になった栄養補給食品の箱が透けている。自分の好きな味だ。空っぽの胃がぐうと鳴ったが、それよりも満たされたい場所は他にあった。
 大きな手をぐいと引く。さすがの体幹は小揺るぎもしなかったが、心得たように顔が近づく。噛み付くように見据えた。
「はようおまえば寄越せ」
「……さっすが、桔平ばい」
 嬉しそうに笑った千歳の目の奥がどろりと蕩けた。そう思った次の瞬間には、大きな体躯に抱え込まれていた。

 一枚、また一枚。体を覆う服が脱がされていく。
 この一週間、体を拭き清め、また着替えさせてくれていただろう千歳の手つきによどみはなく。されど慈しみばかりを夢うつつに感じていた看病のそれでもなく。吹きこぼれそうな熱をどうにか抑え込む唸り声が、時折軋む繊維が、アルファの獰猛さを伝えてくる。
 自分で、と言いかけた言葉は、敬虔なほどそっと触れたくちびるに遮られた。
 支配する雄の傲慢というより、女王の足を捧げ持つ臣下のごとき眼差し。そういえば自然界においては、雌が上位であることが多いのだったか────。
 アルファとして受けた教育を思い出しているあいだに、千歳も手早く己の服を脱ぎ捨てていた。ビリ、とどこかしらが破れた音は気のせいではあるまい。それでも触れる手はどこまでも優しかった。
 節くれ立った手のひらが、確かめるように腕から肩をなぞってくる。頭を枕に預けたまま、目だけでその動きを追うと、一度離れた手はひたりと腹に当てられた。
「おい」
「ここで……俺ば受け入れてくれ」
 陶然とした眼差しが、もうなにも身につけていない輪郭を灼く。ぐ、と軽く押し込まれて、「うっ」と呻き声が出た。苦しかったのではない。ずっとじくじく燻っていた、熱源を直接刺激されたからだ。
 千歳越しの部屋が歪んだ。
 とたん、肌寒さも忘れ火照っていた体に、熱そのものが一気に回る。まるで火が付いたようだった。視界が揺らぐほどに、フェロモンが放出されたのだ。見えないはずのそれが、雪崩れるように押し寄せてくる。
 ────やられてばかりで堪るか。
 それはオメガにされたとて、並び立たんとする意地だった。この体はもはや、どうすればいいのか知っている。桔平はただ、押しとどめていた栓をそっと捻るだけでよかった。
 己が雄を誘う、本能。引きずり込むつもりで向けてやる。覿面、千歳の顔が歪んだ。噛み締めるくちびるの白さにさえ背筋が沸き立つ。
 くそ、とどこかで聞いたような悪態を置き土産に、大きな体が覆い被さってきた。

 熱気と湿気で、窓ガラスが曇ってしまっている。四つん這いになったまま、白いシーツが波打つ様を、どこか遠くから桔平は眺めていた。
「あ、ァア、……っ、ぐ、ぅ」
 ばちゅん、ばちゅんと粘着質な水音。肌と肌がぶつかり合う破裂音。は、は、と荒い呼吸が降ってくる。千歳の熱杭が叩き込まれるたび、押し出されるように喉から漏れる声だけが耳障りだった。
 くちびるを噛み締めようにも、察した千歳が先んじて長い指を口の中に差し込んでくる。まさか骨にまで歯を立てることができようもない。押し出そうとする舌はねぶるばかりで、抗議の意で突き立てた歯は甘噛みになった。
「きっぺ、きっぺー……」
 感極まったように、耳元で名前を呼ぶ声がする。先ほどまで体を起こしたまま、腰を掴んで責め立てていた千歳は、いつの間にか背中にぴったりと張り付いていた。
「ぅ、あァ、あー……っ」
 胎でぐるぐると渦巻いていた熱は、それ以上の灼熱を突き立てられ、かき混ぜられて、もはや下半身を溶かさんとする快楽そのものだった。
 オメガの体の順応性よ。一週間前まで使うことすら考えついてもいなかった尻はしとどに濡れ、指を嬉しそうに食んだかと思えば、引き抜かれて物欲しげに戦慄いた。ピンクのゴムを被せられてなお雄々しくそそり立つ陰茎に竦んだのもつかの間、ぬるついた後孔は圧迫感だけを寄越しながらそれを全て咥え込んでしまったのだから。
 一突きごとに足が手が力を失いくずおれそうになる。痛みでないからこそ性質が悪い。視界はひっきりなしに点滅し、ぼろぼろ零れる涙さえも肌をざわめかせた。頭が、白く、霞んでいく。
「きっぺー……、噛んで、よかか」
 下半身は別物のように打ち付けながら、懇願するようにうなじに舌が這わされる。寄越される呼吸はまさしく犬のごとくで、歪む視界で桔平は笑った。
 第二性を変えてまで自分を欲しがっておきながら、なおねだるこの男が、ひたすらに愛おしかった。
「────来い」
 力を込めて一言、呼んでやる。
「……愛しとる」
 そこは好きだ、じゃないのか。重いな、と一欠片の理性が弾むように笑う。
 食い込む犬歯の痛みさえも甘かった。
 体をもう一度作り替えるいかずちが落ちて、また。

 目が覚めたら、乾いたシーツの上にふたり寝転がっていた。触れる肌の感触で、服も着ていないのだと知る。体液まみれになっただろう体は清められたらしく、さらさらした肌触りが心地よかった。
 暗い。カーテン越しにも光はなく、夜の帳が降りていた。
 どうやら千歳に背を向けた形で抱え込まれているようだ。身じろいだせいか、腹に回された片腕に力がこもる。首筋を、変わらないリズムの寝息がくすぐった。残念だ。顔を見てやりたかったのに。
 くあ、と欠伸が漏れる。朝まではまだ時間がある。自分をつがいにした男の顔をまじまじと見るのは明日に回して、馴染んだ体温に浸ることにした。

(22.05.08)


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